気づいているのに、見て見ぬふり。

年末に向けて冷凍庫の中身を消費したいなぁと思って、冷凍庫をあさっていた。

我が家の冷蔵庫は、わたしが1人暮らしをしていた頃から使っているもので、せいぜい1人〜2人用といったところで、冷凍庫にもそんなにたくさんの量は入らない。
常に冷凍庫はパンパンで、「あー閉まらない・・・」と不快に思うことが何度もあった。

それなのに、それなのに、、
発酵あんこの塊4つを大きなジップロックに入れたものが、3つも冷凍庫の底に眠っていた。

いや、知っていた。

冷凍庫の底に、発酵あんこが眠っていることは知っていた。

これは去年の年末に作ったもので、全然甘くなくて全く美味しくなかったもの。
でも大量に作ってしまったし、捨てるのはもったいないし、きっと何かに使えるだろう、使うだろう、と思って冷凍庫に入れておいたもの。

使い道を考えることもなく、でも捨てることもできなくて、そのせいで冷凍庫が常にパンパンで不快だという事実がありながらも、1年間ずっと見て見ぬふりをし続けていたのだった。

 

先日、「年末までに絶対に片付けたい!」という想いから、
やっと全て捨てることができた。

冷凍庫は余白を取り戻して、開けるたびに感じるストレスは消え、快適になった。

 

あぁ、これはわたしの思考と同じだ。
とすごく思った。

 

「不快だ」

と思う出来事があったとき、
そこには見なければいけない感情、
その感情を感じるきっかけとなった出来事、
その出来事からその感情を感じる元になっている「思い込み(枠、制限、信念)」がある。

 

わたしは知っている。

この感情、この思い込みに気づくだけでも不快感はグッと小さくなるということを。
この感情、この思い込みを手放すと、とても快適になるということを。

それなのに、それをせず、

「不快だ」

という状態のまま、野放しにする。

その不快感の奥には見なければいけない何かがある
ということを本当は知っているのに、見て見ぬふりをする。

理由はさまざま。

・ただただ面倒臭い
・真実を見るのが怖い
・自分側に原因があるだなんて1ミリたりとも思いたくない(人のせいにしていたい)
・身体が重たすぎて何もやる気になれない
などなど。

 

ほんの少し、

「よし、やるか!やるしかない!」
という気合いを入れて、その奥にあるものに触れてみる。
上部だけではなく、人のせいにするのでもなく、自分の中にあるもう要らない古い思い込みに気づいていく。

たったそれだけで、
パンパンだった冷凍庫に余白ができるように、

わたしのまわりに流れるエネルギーに余白ができて、
身体が軽く、快適になっていく。

 

なんてシンプルなことなんだろう。
と今回の冷凍庫発酵あんこ事件はわたしに教えてくれた。

 

ただ片付ければ、快適になっていくというのに。

ただ片付ける。ただそれだけだということ。

 

今、ふと気になって「片付ける」という言葉について調べてみた。

「片付ける」という言葉は、西日本では「直す」という言葉を使うこともあるらしい。
「直す」とは「元の(良好な)状態に戻す事・本来の状態に戻す事」だと。

 

不快な状態は、本当の自分ではなくって、
感情はただもう古い要らないものを取り除いていくためのサインであり、
その要らない古いものを取り除いてあげたら、
本来の自分に戻っていく。

余白がある身軽な状態が、本当の自分であるということ。

本当の自分で生きるってきっとこういうことなんだろうな
なんてことを思った。